嫌なことがあるたびに、どんなタイプの出来事であれ自己嫌悪に陥り、後悔に苛まれ、最終的には「もう忘れよう」という結論にたどりつく。考えても仕方ないし、時間は戻らないし。こうして後悔してる時間は苦痛なだけで無意味!と思って。天気いいから遊び行っちゃおー!とか思って、忘れる。それでいいやと思っていたけど、忘れるせいで同じ性質の間違いばっかりしていることに気付いた。気づくの遅くない!?遅いよ!だから嫌なことほど覚えておく、正確には嫌なことを教訓にブラッシュアップしておこうと思った。と、書くとずいぶん大仰だな。本当はこんなことしたくないよ。何も考えずにタマゴボーロ食べてたい。こんなね、自己啓発本みたいな、「デキる人はやっている!たった5つの習慣」みたいなタイトルの本に書いてありそうな、そんなことやりたくないんですよ。でも仕方ないんですよ。世の中の皆さんが起こしえないような失敗ばっかりするんだもん。だからもうちゃんと自分と向き合わなきゃいけない。自分と向き合うとか意味がよくわからないし、ていうかとにかくしゃらくさいし、本当にやりたくないんだけど、もう切羽詰まって、藁にもすがる気持ち。どうにかきちんとした人間になりたい。真人間になって、どこへ行っても恥ずかしくないようになりたい。

この煩雑で不透明な世の中であるからこそ、愛くらいは簡潔であってほしいと思う。好きなものは好き、以上終わり!であって欲しい。但し、愛でつながることのもろさやリスクを思うと、決してかぐわしい、素敵なだけのものではないと思う。でも、信じたい。信じたさだけでどうにかなると願いたい。愛なんて目にも見えない、手でも触れない、結局人間が社会を築き、人とつながっていく上での願いというか、思いこみというか。サンタクロースを信じて子どもが聞き分け良くなるように、ともすればバラバラになってしまう我々を目地材のようにつなぎ、社会を積み上げていくのが愛なのだろう。愛という思い込みなのだろう。

日曜にかかってくる電話は不吉なことが多いなあ、と思う。3ヶ月ごとくらいにそんな電話がかかってくる。そんなとき、きまって私は二日酔いのような気がする。

電話を受けた2時間後、私はロイヤルホストにいた。ロイヤルホストで嫌な汗をかきながらオムライスを食べていた。半熟卵にデミグラスソースのかかった、すごくラブリーなオムライスがやけに喉にひっかかる。涙ぐむ友人と向き合う既まずそうな男。友人の隣でオムライスを食べる私。私は、いますごく自分は間抜けだと思った。その間抜けさが少しでも役に立つことを祈りながら、もくもくとオムライスを口に運んだ。そうするしかなかった。

その後、少しコメント(というか苦言)と質問(というか詰問)をして、男が何度か力無い首肯をしたのを見、席を立った。気まずさに耐えられずその場に似つかわしくない笑顔を浮かべながら、私は席を立った。席を立つとお尻が汗でしっとりと濡れていることに気づいた、外はもうすっかり暗くなっており、行きに降っていた霧雨は止んでいた。お店を出たときは、重苦しい空気から解放されたことに安心していたが、歩くほどに後悔の念が徐々に強くなっていく。数少ない友人のために私は言うべきことを言い尽くしただろうか。友人を盲信するぐらいの勢いで全面支持するべきじゃなかったのか。自分の正しさで測った結果、友人の気持ちを汲まなかったように思えてならず、私は不遜だと思った。

四半世紀生きたが、どうもあんまり具合がよくない。波乱と呼べるほどの大きな災難も、またその逆もなく生きてきた。衣食住に困ることなく生きてきて、骨が伸び、肉がついて、身体を手に入れた。「大きくなったね」と盆暮れに目を細められた分、私は鏡を覗いて「老けたなあ」と思わねばならない。成長と老化は便益が大きく異なるだけで、同じことだ。ただ滔々と生きていくよりほかがない。生きていくということをただ重ねるだけでは何もよくならない。生きていくことだけで精いっぱいなのに、我慢したり努力したり挑戦したり継続したり、しなくちゃだめ。騙された。誰だ、「生きてるだけで丸儲け」と言ったのは。さんまか。私は生きてるだけでジリ貧だ。利息を払うので精いっぱいだ。「涙の数だけ強くなれる」も嘘だし、「ナンバー1になれなくてもいい もともと特別なオンリー1」というのも嘘それらを信奉したつもりはなかったが、心のどこかでよりどころとしてしまっていたのかもしれない。「そうであってほしい」と「そうである」は同じ線上にはない。